鹿沼御成橋での宇都宮藩と農民一揆の衝突

不安と混乱の渦中に起こったのが農民一揆です。

明治元年、県南の石橋宿問屋役人に対する賃割渡し不当の争いは、従来、幕威をかさに高圧的態度に出ていた宿役人に対して、農民の不満が爆発し、ついに、問屋宅を破壊するという暴挙になりました。

勢いに乗った農民たちは、徒党を組んで雀宮宿に進み、さらに次々と勢力を増して沿道の富豪の家や宿駅問屋を打ちこわし、4月3日には、三千余名の一揆勢が世直しの大旗をたてて、宇都宮の八幡山に集まって気勢をあげました。

宇都宮藩は、約三百名の兵力を繰り出し鎮圧に当たりましたが、一揆勢は北上し、田原村、白沢宿、笹沼、上横倉、徳次郎、古賀志村、武子村を次々と打ちこわしました。

宇都宮藩は鹿沼宿北の御成橋に出陣し、一揆勢と戦闘状態となり、6名の死者と1名の怪我人を出すことになりました。

そして一揆勢は、反転、例幣使街道を北上し、文挾宿に向かうことになりました。

(参考:日光山麓の戦い)

文挾宿本陣襲撃事件

例幣使街道を北上した一揆勢の一部は、玉田村、見野村に行き、村中焼き討ちにすると村人たちを脅かし、勢力を増していきました。

そして、明治元年4月5日ついに御神領文挾宿に突入し、同宿名主の中屋善左衛門宅を打ちこわしました。(建坪八十二坪、玄関附、門構無)

当時の様子は、中屋善左衛門の玄孫に当たる田中義久氏(故人)が、「一揆勢の中には大工や鳶職人などが加わり、敷居や鴨居などの肝心なところを切り離してしまったので、後で修繕することも困難だったと子供のころ、よく聞かされた」と話しています。

(参考:日光山麓の戦い)