文挾宿

文挾宿のおこりですが、元和2(1616)年4月17日に徳川家康が死去し、元和3(1617)年3月に日光山に東照社(後の東照宮)が竣工されました。このときの資材の輸送路として使われた日光道中壬生通りが日光への街道として整備されたとき、文挾宿としての家並みが整えられたといわれています。

天保14(1843)年の『壬生通宿村台帳』によると、江戸から29里32町余(約120㎞)、32軒、人数156人、本陣1軒(建坪82坪、玄関付、門構えなし)、脇本陣2軒(建坪63坪、玄関付、門構えなし・建坪99坪、玄関付、門構えなし)、旅籠屋14軒(大5、中5、小4)、宿内町並み3町14間(約350m)、宿建人馬は、13人・13匹と通常の宿(25人・25匹)より少くなっています。これは、隣の板橋宿との距離が短く、板橋宿と合わせて1宿の扱いとなっていたためです。そのため、文挾宿から板橋宿への継ぎ送りはなく、今市宿と鹿沼宿への継ぎ送りが原則でした。

(参考:杉並木物語、今市のむらの歩み、日光山麓の戦い)